令和7年踊り町と演し物
下記記載内容は『ナガジン』発見!長崎の歩き方 「越中先生に聞く 長崎くんち踊町のいわれと見どころ」より抜粋させて頂いています。
*演し物につきましては平成二十七年十月八日(くんち中日)八坂神社奉納時の演目となりますので、本年度の演し物はプレスリリース発表後、正式な演し物に変更させて頂きます。
西古川町

【傘鉾・櫓太鼓・本踊】
その昔、古川町は寛文12年(1672)長崎再編成のとき同町を本古川町を中心に鹿(しし)とき川方面を東古川、中島川沿いを西古川の三町に分けました。
長崎が相撲の興行地であった江戸時代、その興行を古川町が仕切っていたことから西古川町は昔から「角力(すもう)踊り」を奉納していますが、今年も相撲の開場を合図する「櫓(やぐら)太鼓」、長崎くんち奉納音曲として県指定無形民俗文化財となっている角力踊道中囃子(すもうおどりどうちゅうはやし)など角力ゆかりの奉納となっています。
傘鉾も西古川町は、相撲ゆかりの町らしく、大軍配を中心に、重藤(しげどう)の弓、弓弦乃神代巻(ゆづるのかみよのまき)、同軸箱を配したもので、輪は赤色のビロードに町名があり、垂れは白地塩瀬に金糸で三社紋を刺繍したものとなっています。
賑町

【傘鉾・大漁万祝恵美須船(たいりょうまいいわいえびすぶね)】
賑町一帯も金屋町同様、町内ほとんどが原爆により焼失。旧材木町と本紺屋(ほんこうや)町を主にして戦後「賑町」として発足しています。
原爆により、旧両町にあった傘鉾はもちろん、一切の用具も失われたので、戦後に故谷口正行氏の指導で傘鉾や奉納踊が構成されました。
谷口氏は昔この町には柳川の大川方面より運ばれてきた材木を商った材木町と中島川を利用した魚市場があり、その守護神の恵美須神社が祀られていたことを主軸にして、賑やかな恵比寿船を発案され、船頭歌を歌って船を諏訪社に引き上げ、親船「恵美須船」と子舟「宝恵(ほうえい)船」、「豊来(ほうらい)船」二隻の計三隻が船団を組み、大漁を祝う様を表現しています。
傘鉾の飾は、長崎名物のオランダ渡りビードロ細工が配されていて、輪は黒のビロードに金文字で町名を刺繍。
垂れは、金糸青海波織(きんしせいがいはおり)出の地に金糸にて諏訪・森崎・住吉の三社紋織出金刺繍となっています。
新大工町

【傘鉾・詩舞・曵檀尻】
町名が示しているように本大工・新大工・出来大工と昔は現在の建設業関係者が多くおられたところで、江戸の神田のように粋でいなせな男衆の町であったといわれています。
その気風に合わせ奉納踊は秋の紅葉を飾り立てた段尻車を引き出し、昔は少年剣舞がそれについていました。
今年は、町内にあった上野彦馬撮影局に関係の深い、坂本龍馬を題した詩舞が披露されるようです。
傘鉾の飾は、華麗な秋の紅葉の下に金色の奈良春日神社奉納の春日燈籠が置かれ、段尻飾りの屋根飾りも春日神社に合わせて春日鳥居と奈良御蓋山(みかさやま)の故事にちなんだ白鹿が配されています。
輪は注連縄飾り。垂れは正絹両練固地織薄茶地固流紋に、諏訪、森崎、住吉の三社紋の金糸織となっています。
新橋町

【傘鉾・本踊・阿蘭陀万歳】
奉納される各町の傘鉾のなかでも「趣向第一のものである」といわれています。
この町ははじめ毛皮屋町(けがわやまち)と称していました。
昔、町内に流れていた鹿とき川(ししときがわ)の流域では毛皮の加工が行われており、毛皮、特に鹿皮は武士の胴着、手袋に必需品であったため、ここに職人町が形成されていったのです。
延宝年間(1673~1681)この町の中島川沿いに石橋が新造されたので町名を新橋町に改めました。
傘鉾飾りには旧町名の毛皮屋を巧みに趣向してあると言われています。
鹿を連想させる唐金造の鹿の香炉(禄)を朱塗り花台の上に置き、お多福面の香合(福)、卓の下に長寿のシンボルである霊芝を植えた盆栽(寿)が置かれ、福禄寿のおめでたい飾りとなっています。
輪は黒ビロードに金刺繍で町名があり、垂れの模様は塩瀬羽二重(しおぜはぶたえ)に金刺繍で朱塗の勾欄の雲の浮橋が施されています。
本踊の阿蘭陀万歳は日本に漂流したオランダ人2人が日本の「万歳」を覚えて祝儀に回っているうちに望郷の念にかられるという筋立てで、コミカルな動きが笑いを誘います。
今年演じるのは、長崎検番の花音(かおん)さんと美代菊(みよぎく)さん。
検番の先輩芸妓から若手への芸の継承も見どころの一つです。
榎津町

【傘鉾・川船】
この町の町名はその昔、長崎に往来していた柳川大川の榎津の人たちが多く宿泊していたところより名付けられたといわれています。
その柳川の榎津には、今も大川に川船で乗り出している方が多くおられ、そこには祭礼に使用する古風な川船があります。
この船の古風な形を今に伝えているのが榎津町の川船です。
この川船には威勢のいい船頭さんが乗り、大川に網を打ち、獲った大魚を諏訪社に奉納するという演し物です。
同町の傘鉾は戦後藤木翁夫妻(藤木喜平氏が戦後同町を指導されていた)が柳川を偲(しの)び復興されたと伺っています。
傘鉾の飾は白木八脚に真薦(まこも)を敷き、榊、麻を合わせ金蒔絵三社紋の黒漆三宝に銀の御神酒瓶一対を供え、白木の肴壺に、注連縄飾りの海老を中にしてビードロ細工の双掛鯛を配したもので、輪は注連縄飾り。
垂れは京都の龍村平蔵作「瑞雲流鏑馬文様(ずいうんやぶさめもんよう)」で、地紋に三社紋を配した亀甲の上に流鏑馬装束に身を包んだ走馬模様を羽二重紅地錦織に表しています。
諏訪町

【傘鉾・龍踊】
諏訪町といえば、戦後の「長崎くんち復興」に尽力された山下誠氏を思い出しますね。
諏訪の町の龍踊りは諏訪神社の遣物(つかいもの)が白蛇であることに由来しています。
山下氏はさらに白蛇と関係の深い青龍(男龍)と子龍を加え、新趣向の龍踊りを演出され、長崎の龍踊りを大いに世に宣伝されました。
今は孫龍もいて皆さんを沸かせますね。
諏訪町の傘鉾の飾は諏訪神社の御紋、諏訪町の町名を記した梶の葉に松と玉垣が配され、輪はもちろん、注連縄飾り、垂れは寛政元年~文化14年(1789~1817)に製作と推測されている市指定有形文化財です。
諏訪町の町名にちなみ、緋(ひ)の塩瀬羽二重に諏訪社、湖を渡る白狐、氷裂、稲妻の図を取り入れたものとなっています。
特に湖面を渡る白狐は長崎刺繍で、「本朝二十四孝」の八重垣姫の物語を伝えているのです。